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【日语共读】《菊与刀》连载(5)

【日语共读】《菊与刀》连载(5)

作者: 日语之声 | 来源:发表于2019-05-17 00:54 被阅读1次

          《菊与刀》是美国文化人类学家鲁思·本尼迪克特创作的文化人类学著作,首次出版于1946年。“菊”是日本皇室的象征,“刀”是日本武士道精神的体现。本尼迪克特用这两个词表示了日本人的两种矛盾的性格:好战而祥和,黩武而好美,傲慢而尚礼,呆板而善变,驯服而倔强,忠贞而叛逆,勇敢而懦弱,保守而喜新。对于日本人的这种国民性格,本尼迪克特从等级制度、报恩意识、义理、日本儿童的养育方面展开分析。

    以上のような大きな困難があったけれども、それでも私は文化人類学者として、利用することのできるある種の研究術と必要条件を備えているという自信があった。少なくとも私は、人類学者が大いに頼りにする、研究対象である民族との直接面接をすっかり断念しなくてもよかった。この国には日本で育った日本人が大勢いた。そこで私は彼らに彼ら自身が経験した具体的事実を尋ね、彼らがそれらをどんなふうに判断しているかを見出し、彼らの説明によって、人類学者としての私にとって、いかなる文化の理解にも必要欠(か)くべからざるものと考えられる、われわれの知識の多くのギャップを埋めることができた。当時日本を研究していた他の社会学者たちは、図書館を利用し、過去の事件や統計を解剖(かいぼう)し、文字で書かれ、あるいは口頭で述べられた日本側の宣伝文句の上に現れる変化を追跡していた。私はこれらの人たちが追求している答(こたえ)の多くは、日本文化の規則と価値の中に埋(うず)もれている、だからその文化を、実際にその文化を生きてきた人々について、探究した方が、いっそう満足に発見することができる、という確信をもっていた。

    任何研究都是有困难的。既然这是一个必须完成的任务,作为文化人类学家,我必须找到其他必要的条件和研究方法来继续我的研究。其中与研究对象中的部分个体直接接触是人类学家常常倚重的方法之一。在美国,生活着许多在日本出生和成长的日本人,通过对他们的采访询问,可以搜集到很多他们亲身经历的案例,从而分析他们对于各种事件的判断方法和思维模式,我们能从中获得很多之前无法理解的资料,使我们知识中的空白得到补充。我个人觉得,这样具体的资料和新知识是一个人类学家研究某种文化所必不可少的。这种近距离的接触在当时日本研究领域并不为一些从事这个领域研究的社会科学家认可,他们更多的是利用图书文献,分析历史事件和统计资料,或者从日本当局的各种宣传资料中获取部分信息。我认为,这样的研究未必能够得到最真实的答案,在日本文化的规则和价值中或许隐藏着更加令人信服的内容,因此,研究在这种文化环境中生活的人们,或许能够得到更加令人满意的答案。 

    だからと言って私は、全然書物を読まず、日本で生活したことのある西欧人のお陰を絶えず蒙(こうむ)るようなことは無かった、と言うのではない。日本に関するおびただしい数に上る文献と日本に住んだことのある、多数の優れた西欧の観察者とが、アマゾン河の水源地帯や、ニューギニアの高地へ、文字を持たない部族を研究しにゆく人類学者が全然持たない便益を私に与えてくれた。このような部族は文字言語を持たないからして、自らの姿を文筆によって書き現れしていない。西欧人の解説も寥々たるもので、かつ皮相的である。誰にもその過去の歴史はわからない。実地調査者は、先人研究者の助けを全く受けずに、彼らの経済生活の営(いとな)み方や、彼らの社会がどんなふうな層に分かれているか、彼らの宗教(しゅうきょう)生活において最高至上のものとされているものは何か、というようなことを発見せねばならない。日本を研究する場合には、私は多くの学者の遺産を受け継ぐことができた。生活の細部にわたる描写が、好事家(こうずか)の記録の中にしまい込まれていた。ヨーロッパ人やアメリカ人がその生々しい経験を書き留めているし、また日本人自身が実に驚くべき自己暴露(ばくろ)を書いている。多くの東洋人とは違い、日本人は自分のことを洗いざらい書き立てる強い衝動を持っている。彼らはその世界的拡張計画のみならず、彼らの生活の瑣事(さじ)についても書く。彼らは驚くほど明け透けである。もちろん彼らは彼らの生活をことごとく、余すところなく書きうつしてはいない。どの民族だってそんなことはしない。日本のことについて書く日本人は、本当に重要な事柄を、それらが彼らにとって、彼が呼吸する空気と同じように慣れきった事柄であり、限につかない事柄であるために、見逃してしまう。アメリカ人がアメリカについて書く場合も同じである。にもかかわらずやはり、日本人は自己をはけ出すのが好きであった。

    我并没有忽视文献资料,也没有无视曾经在日本生活学习过的西方人的见闻资料。这些丰硕的文献以及曾经在日本居住过的西方观察家,对我的研究有很大帮助,从这个角度来说,对于日本的研究资源要远远多过对亚马逊河发源地或新几内亚高原等地一些原始部落的研究。后者的民族往往没有文字,不能用文字来记录民族历史和文化。前去实地调查的西方学者们,没有任何前辈遗留下来的遗产可以继承,只能自己探索。而他们的论述也是少得可怜,浮光掠影。我的情况要比这好多了,我可以参考很多对日本进行过很有意义研究的文献和资料。其中有很多关于日本人生活细节的描述,既包括悠游日本的欧美人士的详细记载,也包括日本人自己写下的许多不寻常的纪录。和其他东方民族相比,日本人似乎有着强烈的描述自我的爱好,他们在这样的描述中十分坦率,既有自己的生活琐事,也有国家全球扩张计划,这让人十分诧异。需要注意的是,日本人在这些描述中会省掉很多我们认为十分有价值的重要事情,这是因为他们对于这些太熟悉了,因此认为根本没有写进去的必要。所以日本人不会把自己全部写出来,也没有任何一个民族会这样做。即使是这样,日本人仍然为我们提供了很多有用信息。 

    私はこれらの文献をダーウィンが種の起源に関する理論の仕上げに取りかかっていた際にしたと言っているやり方と同じように、理解する手段のない事柄に注意しながら読んでいった。議会における演説の中の観念の羅列(られつ)を理解するためには、私はどういうことを知らなければならないのか。彼らは別に大したことではないと思われる行為を猛烈に非難し、無法と思われる行為を平気で是認するが、こういう態度の背後には一体何が潜(ひそ)んでいるのか。「この絵はどこが変なのか」、それを理解するためには、私は何を知る必要があるのか、という問(とい)をたえず繰り返しながら読んでいった。

    在阅读相关的文献时,我特别注意了日本人身上体现出的那些我们无法理解的事情。比如:我必须了解日本人在议会演说时罗列出来的一大堆观念的真实含义是什么?为什么他们对于一些骇人听闻的残酷暴行不太在意反而对于一些看上去无足轻重的行为疯狂反击,这背后隐藏着什么呢?类似的问题层出不穷,而我则一边阅读,一边提问,因为我得知道那些东西究竟具有什么样的意义在其中。

    私はまた、日本で書かれ製作された映画、——宣伝映画だの、歴史映画だの、東京や農村の現代生活を描いた映画だのを見にいった。その後でもう一度それらの映画を、同じ映画の中のあるものを日本で見てきた、そしていずれにしても、主役や女主人公や悪役を、私がそれらを見る見方ではなくて、日本人が見る見方でみる日本人達と一緒に、子細(しさい)に検討してみた。私が分からなくて途方に暮れているときにも、彼らはそうでないことは明らかであった。筋や動機も私が理解したようなものではなくて、映画全体の構成の仕方から考えて初めて意味が通じるのであった。小説の場合と同じように、私の受け取った意味と、日本で育った人々に受け取られる意味との間には、一見して目につく以上に、はるかに大きな違いがあった。これらの日本人の中のあるものは、すぐに日本人の慣習を弁護した。そしてあるものは、日本のことなら何もかも憎んだ。この二(ふた)通りのグループのどちらから、私は最も多く学んだか、断定することは難しい。日本では生活をどんなふうに律(りっ)しているか、ということに関して彼らが描き上げた、彼らの熟知している画像においては、それを喜んで受け容れようと、憎々しげに拒否しようと、彼らは一致していた。

    除此之外,我还搜集了许多在日本编写、摄制的电影,包括宣传片、历史片和反映东京及农村现代生活的影片,并在看完这些影片之后与熟悉这些影片的日本人进行细节讨论。我发现,我的看法,比如对男女主角、反面角色,常常与他们不同。而一些让我迷惑不解的情节,对他们来说显然很好理解。我们之间,不论在对剧情、人物动机还是其他方面的理解上,往往不一样。这些在日本成长但现在生活在美国的日本人中,有些人是在为日本的风俗习惯辩解;有些人则对日本的一切都痛恨。我从中能够感受到的是,无论是对日本怀着积极感情的还是痛斥日本的人,他们对于日本的很多描述是一致的,这让我在研究中获益匪浅。


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    主播/周周

    编辑/ミアオ

    责任编辑/日语之声

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