どうしてこんな恥ずかしいことを話したかといえば、今、中学生以上の読者を対象にしてこの講演を書き始めながら、中学生、高校生当時の自分が日本語をーーもちろん英語もーー恐ろしく知らなかったことを思い返さずにはいられないかった。
いやはや、恐ろしく日本語を知らなかった。
たとえば、ええと……「~さざれいしのいわおとなりて~」と歌うには歌っていましたが、意味を知ったのはいつだったか。「さざれしい」は石らしいと思って、だから「岩音鳴りて」、岩のぶつかる音が鳴っていると想像したいました。「箱根の山は天下のケン~」なんてのも、「天下の剣」だと想像していた。五十歩百歩というのは二倍違うことだろうと思っていたし、大人がオンノジと言うのを耳にして「恩の字」とはうまい表現だと感心していた。社会経済に疎い頃ーー今でもそうとう疎いですがーー大手という言葉を聞いて、大手という名の会社があるのだと思っていました。
为什么我要以自身举例呢?因为我现在写的这本讲演书籍,是面对中学生、甚至更高年级的学生,所以每每下笔时,总是要先考虑,如果我回到我的中学、高中时期,书中使用的日语、当然还有英语,我是不是真的能理解。只有我确定之后,才敢真的下笔。
啊呀,这些日语可能不知道呢!
举个例子,比如……在唱“咚咚碎石碰撞之音”这首歌的时候,到底是在什么时候才真正了解歌词的含义的呢?“咚咚”是石头碰撞的声音,后面的是“碎石碰撞之音”,在真正了解歌词含义的时候才会去想象这个场景。“箱根的山是天下的jian”也是如此,只有真正看懂了“天下之剑”这几个字,才会去思考“天下之剑”的含义。就像一百步是五十步的两倍这种已经形成条件反射的思维,当成为大人的我们已经能够在听见别人说“shi fen man zu”的时候,将其灵活地转换成“十分满意”的词义。当社会经济萎靡的时候——虽然目前的经济状况不好——接下来听见含有大企业的单词,我们也能非常灵活地转换成相关的大企业的名字。
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