静心忘物

作者: 亲亲西米录 | 来源:发表于2020-05-18 08:32 被阅读0次

    金阁寺。三层。

    尤以内外敷贴金箔而举世闻名。

    在阳光,绿树,池水的映衬下,美则美矣。

    然而,能阿弥已经不在;那些能让这座暴发户式建筑闪闪发光的人们,已经不再。

    杨修品先生《美学纵横》中对它评价不高,我现在懂了。


    事实上,在未见到金阁寺前, 我居然意外地先被这个地方吸引了。

    金阁寺公园售票处旁边,一个不起眼的木牌上标示着写经场。

    说明上写此处可抄写玄奘法师翻译的经文,时间要根据经文不同需要一刻钟到一个小时不等。

    入口处的两扇木门板紧紧合着,也不知道里面是否有人。

    那一刻,不知为何,我犹豫片刻,离开观光的人群朝那扇紧闭的门走去。

    拉开门,居然是很宽阔的大堂。有一个穿浅绿衣服的日本女孩子迎了出来,将我带到写经场。

    写经场外的日式小庭院,有人的痕迹,却见不到任何人。

    我在一个房间里坐下,之后一个稍微年长的女子进来给我讲解写经流程。

    她突然很惊异的问我,你是外国人吗?刚才我一直以为你是日本人。

    我想,并不是我日语有多好,只能说明这个小院外国游客极少来。

    我选择了般若波罗蜜心经。一个人在这间屋子里,全神贯注抄了两个小时。

    其间不时传来寺院的钟声和游客的喧闹声,反而更能让人专注。

    这种专注,对于越来越浮躁的我而言,是种极大的放松。


    说是写经,也只是习字似的描红。

    般若波罗蜜心经在日本流传极广。

    当写到那句著名的色即是空空即是色时,想起今年五月跟安安讨论平山郁夫画册里这一段的情景,不禁莞尔。

    无数次无数次想起辩机。

    不知道他跟高阳公主看到这一句的时候,是否也会莞尔。

    我想,不懂情性为何物的人,是没有资格说这一句的。

    吸引我来这里的,是门外木牌上写着的玄奘法师几个字。

    而在这里两个小时中,我心头涌起的,却是他举世无双的徒弟,和他徒弟惊世骇俗的爱情。

    留人间多少爱,迎浮世千重变;

    和有情人,做快乐事,

    别问是劫是缘。

    佛经与情爱,是我们彼此生活的常态。

    对调着过一过,确实妙不可言。


    龙安寺。枯山水。

    它给我的冲击是无与伦比的。

    从小学起,我第一次在一本黑白建筑画册上看到它的一瞬,我一生的审美情趣就被定格了。

    我无法忘记它给我的感觉——那种逼人的朴素。

    以至于故宫,金阁寺那类金碧辉煌的建筑,让我眼睛有种进沙子的疼。

    很多年后,当我看到安藤忠雄的清水混凝土建筑的时候,那种感觉又一次出现了。

    那是一见钟情的感觉。

    我不懂佛不读典。

    我的宗教心是淡泊的。

    我善良但不打算慈悲,只可以爱生活里的极少部分人。

    这个世界对我而言是那么实实在在,我不想超脱生死超脱名利看淡一切。

    我享受紫陌红尘,享受人世浮华,享受人生苦短。

    那些生命中必须要经历的痛苦与快乐,不知从何时起我已经懂得欣赏并觉得美好了。

    心越大,痛苦与快乐的滋味就越淡。

    每次许愿的时候,我都没有特别想实现的愿望。

    因为越努力做一件事情,得到的满足感越大。

    虽然我也向往清凉纯净的世界,也会尝试用佛家的智慧来让自己更仁善。

    但,我与佛,必须保持永恒的距离。

    佛浮于彩云之端,而我的每一步,都深深踏入尘土;虽然所处位置不同,但二者眼中的对方,却是同样的大小。

    我仰望着佛,很多时候也只能,像他望着我那样,合掌微笑。

    你有你的,我有我的方向。


    在金阁寺抄写经文的时候,读了「ブッダの教え『お経』のことば」一段佛经故事,有童话风格。现抄录如下:

          人生の問いー若き太子の苦悩ー

     ヒマーラヤ山の南に、釈迦族の都があった。王は、善政をしき、民衆は喜び従っていた。

     妃は、子に恵まれず二十幾年の後、懐妊。臨月近く、生家に帰ろうと、ルンビニー園に休息し、王子を生んだが、間もなくこの世を去り、太子は以降、夫人の妹によって養育された。

     太子は七歳の時から文武の道を学んだ。田園に出、農夫の耕すさまを見ているうち、鋤の先に掘り出された小虫を小鳥がついばみ去るのを見て、「哀れ、生き物はお互いに殺しあう。」と呟き、一人木陰に坐って静思した。

     生まれて間もなく母に別れ、今また生き物の噛み合う有様を見て、太子の心には早くも人生の苦悩が刻まれた。それはちょうど、若木に着けられた傷のように、人共に成長し、太子を益々暗い思いに済ませた。

     太子十九歳のとき、ヤショーダラーを迎えて妃と定めた。

     この後十年の間、太子は、春季秋季雨季其々の宮殿にあって歌舞管弦の生活を楽しんだが、その間も頻りに沈思瞑想して人生を見極めようと苦心した。

     「宮廷の栄華も、健やかなこの肉体も、人から喜ばれるこの若さも、結局この私にとって何であるのか。人は病む。何時かは老いる。死を免れることはできない。若さも、健康も、生きていることも、どんな意味があるというのか。

     人間が生きていることは、結局何かを求めていることに他ならない。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいものを求めることの二つがある。誤ったものを求めることと言うのは、自分が老いと病と死とを免れることである。

     正しいものを求めることと言うのは、この誤りを悟って、老いと病と死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることである。今の私は、この誤ったものを求めているものに過ぎない。」

     このように心を悩ます日々が続いて、太子二十九歳の年、この俗世界との繋がりを断ち切って出家の身となった。太子は髪を剃り、食を乞いつつ南方に下った。

     太子は初め仙人を訪れてその苦行の実際を見、また自らそれを実行した。

     しかし、それらは結局悟りの道でない知った太子は、マガダ国に行き、激しい苦行をしたのである。

     それは真に激しい苦行であった。

     しかし、この苦行も太子の求めるものを与えなかった。そこで太子は、六年の長きに渡ったこの苦行を未練なく投げ捨てた。沐浴して身の汚れを洗い流し、乳糜を受けて健康を回復した。

     太子は静かに木の下に坐って、命をかけて最後の冥想に入った。「悟りを得るまでは、私はこの座を立たないであろう。」

     その日の太子の心は真に例えるものがないほどの悪戦苦闘であった。真に、血は流れ、肉は飛び、骨は砕ける程の苦闘であった。

     しかし、夜明けを迎えて明けの明星を仰いだとき、太子の心は光輝き、悟りは開け、仏と成った。それは太子三十五歳の年の十二月八日の朝のことであった。

     これより太子は仏陀、無上覚者、如来、釈迦牟尼、釈尊、世尊等の種々の名で知られるようになった。


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