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战后日本东京附近的中日料理

战后日本东京附近的中日料理

作者: 外星系学园 | 来源:发表于2020-02-17 15:15 被阅读0次

    古川緑波/著

      先ず、戦後はじめて、東京に出来た店に、ギョーザ屋がある。 以下、話は、東京中心であるから、そのつもりで、きいていただきたい。 ギョーザ屋とは、餃子(正しくは、鍋貼餃子)を食わせる店

    ......又、赤坂の、もみぢでは、焼売シューマイと言うと、これを食わせていたものである。尤も、もみぢのは、蒸餃子であったが。然し、それを、すなわち、ギョーザを看板の、安直な中華料理屋ってものは、戦後はじめて東京に店を開いたのだと思う。

    ......

    さて然し、戦後、食いもの屋の中で、一番数が多くなったのは――いいえ、食いもの屋全体の数が、戦前の一体、何倍になっているか――やっぱり、中華料理屋であろう。それに続いて可笑しいことには、主食の販売が、うるさくなるにつれて、ゴハン物の店が、ぐっと多くなっていることだ。すし屋が、そうだ。釜めし屋、お茶漬屋だって、たとえば、戦前の銀座には、あすこは此処とと、数える位しか無かったのが、今の銀座は、横丁へ入る毎にそういうゴハン物の店があるようになった。 やきとり屋も、やたらに多くなった。これについては又後に詳説するつもりであるが、銀座ばかりではなく、東京の盛り場には、やきとり屋は、これも戦前の何倍かになっているであろう。 もう一つ。それは各国料理屋が、色々と店を拡げたこと。戦前から、少し宛ずつはあったが、今のようにロシア料理、ドイツ料理、イタリー料理、などの店が、各々東京都内だけでも数軒、或るものは数十軒もあるというようなことは無かった。朝鮮料理、台湾料理の店もある。各国料理の店、そして、成吉思汗鍋から、ミルクワンタンというような変り種、さてはホルモン料理のゲテもの屋の数々。 かと思うと、戦前からの古い、有名な店々――ぼうずしやも、ももんぢや、豆腐料理の笹の雪、あい鴨のとり安、等々も、昔の通り流行っている。近くは、揚げ出しも復活したとかきいた。 かくて、今や、ああ東京は食い倒れである。

    豆腐绝对是中华民族的一项伟大发明。不仅制作工艺较为简单、对原料的要求不高,而且营养结构均衡,适用于多种烹饪手法,以至于到了当代,豆腐也是减肥人士钟爱的食品之一。对于豆腐起源于中国这一点,学术界已无争论。因为世界上关于豆腐的最早的文献记载便是10世纪陶谷所著的《清异录》中的这么一句话:

    “時戢為青陽丞,潔已勤民,肉味不給,日市豆腐數箇。邑人呼豆腐為「小宰羊」。”

    1691年,玉屋忠兵卫作为上野宫亲王的随从从京都来到了江户,得到亲王资助的他在江户根岸区开办了笹の雪豆腐餐馆,特色就是他自创的“绢滤豆腐(絹ごし豆腐)”。没想到这种以嫩为特色的豆腐大受欢迎,被其他豆腐店争相模仿,最终普及开来,成为被日本人食用得最多的豆腐品种。而这种豆腐之所以又名“笹の雪”,就是因为上野宫亲王称赞它宛如冬天筱竹上的积雪般洁白美丽,赐名“笹の雪”。

    笹の雪豆腐料理店创业于元禄年间,著名俳人正冈子规(1867~1902)也曾经常来这里就餐,是一家正宗日本料理餐厅。其最具代表性的料理,就是在温热嫩豆腐上淋上葛汤芡汁的烩汁豆腐。该店制作豆腐和料理用的水,数百年来都是取自从武藏野流过来的、深达80米的地下水脉,以保证食材都能保持其独有味道。餐馆内部有独立的个室,能够一边观赏庭园一边静静的用餐。在这里能够享用到和日本江户年间并无二致的传统和食料理。

    我庭の小草萌えいでぬ限りなき天地今やよみがへるらし.

    译文:

    我庭小草复萌发,无限天地行将绿。

                                                                                          ——正冈子规

    古川绿波“ああ東京は食い倒れ”生动有趣地讲述了战后东京及附近地区料理的变化,从料理可见战后日本经济社会的变迁,读来轻松有趣。

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