西洋では、自殺は病理学的衝動によるものと見なされます。超越神に基づく道徳は、自殺に肯定的な評価を許しません。しかし、日本の神道は道徳に基づいてはいません。審美的な価値としての「清らかさ」がその中心にあり、邪悪は儀式による清めで取り除かれます。華道から日常の礼儀正しさまで、この清められた礼儀作法、この儀礼的な態度に帰しています。
日本では「美しくあること」が最重要で、演技、形式としての「建前」が存在します。暴力行為も、道徳的な悪として拒絶されることはありません。犯人に対する判断基準は、純粋であったかどうかです。神道と並んで、日本の武人階級(武士/侍)の禅仏教が自殺の観念に影響を及ぼしました。日本の国民的シンボルの桜の花は、短いけれど極めて美しい命を象徴しており、それぞれの命が、美しいけれど強いられた死の中で完成します。日本人は今も儚さを意識しています。
日本人の誇りは「和」と「義理」のための自己犠牲の上に形作られています。日本人にとって、西洋の個人の良心に基づいた自尊心は、エゴイズムの最たるものです。この背景において「切腹」は集団の名誉のための儀式的な自殺で、「義理」の究極の形と言うことが出来ます。そのような捧げられた死は、倫理的な共同体を示しています。キリスト教でこの儀式は、キリスト受難の伝統の延長である殉教者に関してだけ、考えられ得ます。
切腹は1870年に公式には禁止されましたが、その肯定的な評価は今も存続しています。三島由紀夫や谷崎潤一郎は、自滅的な態度を敬愛しています。彼らの生き方は「死の願望」の証拠となるものです。この死の意識は、確かに日本文化に不可欠な構成要素です。そして酔っ払いへの寛容さも又その表れと考えることが出来ます。
死の肯定的な経験を内側から理解しようとする時、西洋の思考のための定義、自律と他律、個人と社会、内面と外面、存在と無のような対立物は崩れ去ります。西洋人が「個人の良心」を見出すところに、東洋人は集団で決められた「義務」が及ばぬ限りない「無」を見出しているのかもしれません。
西洋での分析でいつも前提とされる個人と集団の二分法は、日本の伝統の中には存在しない方法的前提であることは、明らかです。
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