最近、日本の「旅かえる」という蛙を飼うスマートフォンゲームは中国でもブームが巻き起こっています。カエルは小屋で食事したり、文章を書いたり、鉛筆を削ったりします。時にはスポーツをプレイします。時にはうとうとします。兎に角、愛嬌たっぷりです。このように「気の向くまま」、「気分次第」といった我が儘な性格を中国語で「仏系」と呼んでいます。「仏系」という言葉は、新たな○○系として生まれた流行語でもあります。物事を淡泊に捉え、前向き行動しなく、他人と争わず、勝っても負けても平気というライフスタイルを指します。あなたは「仏系」又は「仏系○○」をどう理解しますか?
1.仏系でなくても気楽に過ごそう
私が仏系青年ではないけど、所謂「仏系」のライフスタイルが憧れている。20代の若さながら、もう「仏門」に帰依し、アーギュメントせず、静かな心境で「大悲呪い」を清聴することすらある。また「喪文化」の現象から影響を受け、若者の少数派が消極的なライフスタイルを取る傾向にあるよう見えるが、実際は恐らく職場や社会生活によるストレス感から逃れ、自分を守ろうとする原因にあろう。
情報爆発、多事多端な現代社会に置かれ、大きなプレッシャーを感じられるのは無理もないことである。些細なことに拘ったら時間も体も台無しになる恐れがある。
私の場合、スポーツのスキル・アップの道理が分かってはいるが、ただ普段忙しいから、スポーツをプレイする時間があまり多くない。でも少しやるのはやらない方よりましだと考えている。人生の長い道程に於いては必ず悩みやプレッシャを伴うものである。困難にあっても、挫けずに、気楽に過ごそうではないか。
(秋特特)
2.「旅かえる」からヒント得る
最近中国では不思議なことに「旅かえる」というゲームが大ヒットとなっている。というのもここ数年、経済が急速に発展するにつれ、スマホの普及率がかなり高くなってきた。それに伴い、スマホ向けのゲーム市場も大きいものとなっている。通常、ダウンロード率の高いゲームはキャラクターの魅力とストーリの面白さの度合いと関係している。もちろんゲームの難度が高いことも、プレイヤーが意欲に燃える要因にもなっている。「旅かえる」というゲームには、これらの要素は何ひとつ備わっていない。中国でブームとなったのは、いったいどうしてだろう。
私もこのゲームをダウンロードしてみた。蛙は私たちの憧れる【自由気ままな】生活を過ごしており、いつも思い切って旅に出る意気込みを持ち、実際にわがままに旅をすることができる。しかし、私たち人間は、生活を営むため山ほど仕事をしなければならない。だから旅への願いをゲーム【旅かえる】に託すことでリラックスして旅気分を楽しめる。
一方、蛙がのんびりとした生活を過ごせるのはプレーヤーがお金をかけて物質的にサポートしたからだ。社会人である以上、親から独立して蛙のような暮らしをしようとすれば、仕事に没頭し、頑張らなければならないことになる。蛙が一人旅に出るとプレーヤーは心配を募らせ、常に見守って、配慮したりして、親心を養うことになるであろう。
このゲームが「仏系」と呼ばれたわけは、このあたりにある。「仏系」というライフスタイルは諸葛孔明が唱えた生き方と共通点があって、少し消極的な傾向にあるように思う。「澹泊(たんぱく)にあらざれば、以て志を明らかにすることなく、寧静(ねいせい)にあらざれば、以て遠きを致すことなし」という名言が残っている。そこから学び、功名利益に執着せず、淡白とした生活をし、ひたすら学問に専念すれば良いのではないかと思う。
(小蒲 修改:SHU先生)
- 「仏系」にぶっ通しせずに
「仏系青年」という言葉は良く言えば、世に求めず、人と争わず、穏やかな青年である。悪く言えば、満足し易く、何の向上心もなく、しゅんぼりした感じである。いずれにしても、仏系青年は自ずとなるわけである。しかし、実態はどうだろうね。
仏系青年は大体19歳から28歳までの90年代後半の若者が多い。つまり、大学や職場に入ったばかりの世代である。小さい頃から親に溺愛され、全ての要求を満足してもらえる。90年代に生まれた一人っ子は、厳しい社会におかれては、なにもかも思うままに進まないに極まっている。学位を取り、仕事に就き、出世してすぐ結婚という理想なプロセスと思い込んだら、現実な社会で常に壁にぶつけてしまう。それは理想と現実の差が大きいからである。現実を変えようとする若者は、無力感や脱力感を覚え、落ち込んでしまうケースも多々ある。なぜなら、単なる自分だけの力で世直しは到底無理なことである。すると自分を変えようとすれば、自分自身に頼るしかないと認めざるを得ない。多分その発想から自我中心に、興味を大事に考えるようになり、初めて「仏系青年」が生まれただろうと思われる。
確かに厳しい社会におかれて生活を営む若者にとって、簡単に「やればできる」とは限らない。やる気があるだけでは無理なようである。勿論機運によるところが多い。このような現状を踏まえ、大勢の仏系青年は「絶対無理」と考えがちで、前向きでなく、最初から諦めることになる。しかし、私から見れば、百パーセントの成功が見込めなくても、努力した方が良い。逆に、「仏系復習?」など淡泊という言葉は怠け者の言い訳に過ぎないと思う。
最後はありふれた話だが、やればできるまで至らなくても、やなければ絶対できない。仏系青年たちよ、自分が流れに沿って、人並みで過ごすことに本当に満足しているかどうかを自問自答して、悔いのないように、新たなる一歩を踏み出そうではないか。
(王梦晗)
4.仏系と決めつけないで
最近、日本の「旅かえる」という仏系ゲームがウェチャットのモメンーツに風靡した。なぜなら、このゲームの主役たる蛙はよくも飼い主である主人には一向連絡や報告せずに勝手に何処かへ出掛けて、又何時の間にか荷物をぶら提げながら、帰宅するという習慣があるから、主人は逆にアシスタントの役目を果たすことになる。
「仏系」という言葉は最近耳にする頻度が高い、90年代後半の者にも仏系世代のレッテルを貼られている。仏系とは、学業や仕事や生活に於いていいかげな態度を取る人を言う。しかし、今や若者全体を仏系と呼ばれているのは一体適切だろうか。私から見れば、どんな場合でも、勝っても負けても平気、どうでもいいような人間なんか世の中に果しているだろうか。人は全て生れ付きながら欲薄いお坊さんになるわけがない。ということで、自分の人生をもっと楽しくするために、全てのことを本気にやるなら、人生の負担が重すぎるのではないか。なので、場合によっては、物事に熱中せず、淡泊に受け止めれば、いいんじゃないかと思う。
(张慧琳)
5.「仏系」への疑念 (已修改)
私が「仏系○○」に対して深く疑念を持っている。「仏系」って果たして人間の本性と言えるだろうか。欲求がないって「気ままをする」とはかなり矛盾しているのではないか。分かりやすく言うと、働かなくても好きな食べ物が食べられるとか、働かなくても住み心地の良い所に住めるとかいう甘いことは有り得るのか。好きなように楽な暮らしをすること自体は欲求そのものではないか。欲求なしでは、世の中は発展できるものか。
言って見れば、冬になると、寒くて厚い服を着なければならないし、夏になると熱くて堪らなくて、エアコンをつけたくなる。皆が欲求がなくなると、紡績工場や呉服屋は必要でなくなるし、クーラー・メーカーは生産ストップになろう。スーパーマーケットも店仕舞いになるのではないか。我々人間はこの世界に生き続けられるか。なので、生きるためには、欲求なしでは考えられないことになろう。
(kirin)
- 仏系青年 (已修改)
「仏系青年」といえば、いきなり「自分のことではないか。」と思ってしまう。仏系青年は物事に対してどうでも良いとか、欲求がないとか、執着はしないとかというライフスタイルを持っている。今の時代はもっぱら効率を図ったり、スピードを追求したりしている。にもかかわらず、「仏系青年」は却ってどんどん生まれて来た。
学生時代では学生同士がややもすれば試験の成績を比べがちだったり、社会に出ては、同僚の仲間は業績などについて、周りの人に構えて遅れは取るまいと一層競争が激しくなったりする。このようにいくら努力しても猛仕事に慣れた人や天才にはとても敵わない。毎日の競争で心身とも疲れ果てて、いつかは億劫になってしまい、諦めるより仕方がない。それより自分の体調などに気がかり、頑張らなくていい、無理をしない方が楽だと意識した。知らず知らずのうちに自分が仏系青年になっちゃった。私が思うには、無理のないように、ほどほどすることは別に悪いことでもない。
仏系青年は欲求がないと言われるが、実際彼らは他人と競争することが嫌いになっただけで、必ずしもダメな人間とは限らない。只自分なりにほどほどやっているだけだ。物事に執着しないからだ。これこそ仏系青年の特徴とも言えるだろう。
なので、仏系青年には、頑張るかどうかはご自身次第だ。自分の人生は自分で把握し、お好きなようにゆっとりある人生を選んだらどうかとアドバイスしたいものだ。
(陈 较瘦)
网友评论