母の日と距離
母亲节与距离
歌人で作家の岡本かの子は、遠いパリで芸術の道をあゆむ息子、太郎への思いを短歌に詠んだ。<犬が吠(ほ)ゆればとて猫が鳴けばとて雀子がさへすればとて汝(なれ)をおもふぞ。>恋の歌ような情熱である。
既是歌人又是作家的岡本KANOKO,把对远在巴黎研修艺术之道的儿子太郎的思念之情在短歌里咏唱了出来:<即使是狗叫了,猫叫了,雀儿叫了,都会让我想到你。> 像是恋歌一样热烈。
ふとしたことで会いたくなり 「パリが東京でないのが腹立たしくなる」と、かの子は随筆に書いている。例えば息子に似た青年の後ろ姿を見たときに、息子の古い着物を取り出したときに 「タロー!タロ!」と叫んで走り回りたくなる気持ちを歌にしたという。
“随意一件小事都会(使我)想见你,「是巴黎不是东京,这点真让人生气」”,KANOKO在随笔中写道。比如说会把看到像自己儿子的青年的背影时、取出儿子穿过的旧衣服时,都要“太郎!太郎!”的呼叫的这种来回反复的心情写进歌里。
<フランスのパリ遠くしてわがのど裂けつつ呼ぶとも吾子に聞えじ>。1930年代の日本と西洋との距離。そこまではいかないにしても、実家に帰省もできず、親子の距離が大きくなりがちな昨日である。いつもと少し違う母の日になった。
<法国的巴黎 那么远 喊破我的喉咙 吾儿也听不见>。这是二十世纪三十年代的日本和西洋的距离。即使没有那么远,无法返乡回老家,父母与子女之间的距离容易拉大的昨天。成为了些许不同往常的母亲节。
たとえ近くに住んでいても、大切に思うからこそ親に会いに行くのを控えている、そんな方もいるのではないか。ありがどうの気持ちを伝えるのは、電話か、ビデオ通話か。そして、手紙もある。
即使住的近,正因为是贵重的思念才控制不去与父母见面,这样的人也有吧?通过电话或者视频传达感谢的心情。又或者,写信。
今年は母の日ではなく、5月を丸ごと「母の日」に。そんなふうに、お花屋さんなどが呼びかけているという。であれば今から便箋に向かっても十分間に合う。長くなくても、特別な言葉で飾らなくても、手書きの文字が縮めてくれる距離がある。
今年不是那一天是母亲节,而是整个五月都是母亲节。有花店这样呼吁着。这样的话,即便现在才开始准备便签也是足够赶上的。不够长也没关系,没有特别修饰的语言也没关系,手写的文字能够缩短距离。
岡本太郎も、母かの子にパリから手紙を出している。「おかさん、感情家だけではいけませんよ……」。親をたしなめるような文を、目を細めながら読む姿が浮かんでくる。
岡本太郎也从巴黎给母亲寄了信。“妈妈,只当感情家是不行的哟……”眯着眼睛读着了解母亲的文章的姿态浮现在了眼前。
明明是母亲节,写的却是母亲对子女的思念。像自己母亲思念着自己一样的思念母亲的子女有多少呢。
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