昨日日本語の聴解授業に行った時、私はいつものように寮の外の大きな木の下のベンチに座って、木の陰を覆わせて、暖かい風を浴びて、枝の上で鳥のさえずりを静かに聞きながら、外国人の授業を真剣に聞いていた。自然と知識の二つの趣味を兼ね備えていた。人の世の美とは、その中に入って外に出るような淡泊さに勝るものではない。秋には、このような散漫さを一年中の極致にまで発揮したに違いない。
冬に比べて、秋には厚着を着て寒さを防ぐ必要はない。夏に比べて、秋には冷たい水を飲む必要はない。春より秋の方が老けて見えるという人がいるが、それは後ろに並んでいるだけだから。自ら見ると、ちょうど反対だ。老けているというより、時間は成熟した気質を与えるの方がいい。瓜と果物が熟し、魚やエビが太って、木の葉が舞い、百花が香る。どれは詩人たちを魅了して詩を書くに足りない?「自古逢秋悲寂寥,我言秋日勝春朝」と劉禹錫の詩は言い、この話はもっともだ。ところで、秋の境の妙はこのような外在的な華麗さだけではなく、内在的な恒常的な空にもある。その内在が空であるからこそ、さまざまな同じまたは違った景色を一つに溶け合い、それらを生き生きと表現し、偏執がないからこそ、何の偏執も残さない。悲しい秋というのは、悲しい光景も美しい秋の境であるが、見る人に別れの心があるからこそ、悲しい気持ちになる。秋の心で秋の境を見れば、秋の境は完璧な境地ではないか?
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