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夏目漱石《永日小品》之《克勒伊古先生》 个人翻译

夏目漱石《永日小品》之《克勒伊古先生》 个人翻译

作者: 切间美星 | 来源:发表于2019-09-25 18:27 被阅读0次

    此为夏目漱石《永日小品》散文集最后一篇

    夏目漱石《永日小品》之《克勒伊古先生》 个人翻译

                      克勒伊古先生

    克勒伊古先生像燕儿一般在四楼筑着巢。站在石板路的一段抬头上望,他所住的地方连窗户都看不见,从楼下一阶一阶向上攀,走到大腿略发酸痛时,总算是到了先生居所门前。不过我说这是门倒并非因为看到了门扇或门棚,只是凭这不足三尺宽的黑色大门上镶着黄铜门环来判断的。在门前稍作歇息,捏住门环下端摆击数下,门便向内打开了。

    来给我开门的人总是一位妇女,似是近视眼而戴着副眼镜,她对我的到来止不住的惊异。按说她也年有五十,久观世间应不当风雨多变,可她仍一副很惊讶的模样,对敲开门的人示以同情般睁大的双眼,道了句欢迎。

    一入房中妇女便立刻消去了踪影。在进门的第一个客房——开始我也没觉着是客房,那儿一件装饰品都没有,只开有两个窗户和摆着大量的书而已,克勒伊古先生多半都会占住在这。他一瞧我进来,“啊呀”一声便朝我伸出手,这是要找我握手的意思,握是归要握的,但他从未回握过,我也并非乐意去握手的人,便想着要不以后还是免了这套吧。但他仍会“啊呀”一声向我伸出那布满浓毛与皱襞的消极手掌。习惯确是个难以琢磨的东西。

    这只手的拥有者便是为我解惑的老师。初次相见时我问过他讲课收费怎么算,他唔囔着望向窗外,回道:“一次七法令如何?太多的话也可以让点价给你。” 接受了这个价格的我便以一次一次课七法令的价钱作算,在每个月月末时一次付清。但有时候也会突然被先生催款,“那个,我手头有点紧,要不你先把授课费交一交?”他会对我说如是的话。

    我便从西服裤的口袋里掏出金币,一个不剩的全递给他,先生说着:“真是对不住啊。”把钱收入手中,摊开那双消极的手掌,略略望了望躺在其中的金币,而后揣进了裤子口袋里。可麻烦的是他绝不会找零给我,说什么剩的就续作下一个月的学费,可到下一周就又说想要买书而来找我催款了。

    先生是爱尔兰人,说的话相当难听懂。他要是稍微急了点,就跟东京人和萨摩人吵架一样难比登天。在他这样十分轻率又极为急躁的性格下,我的事若有点复杂的话,便只能听天由命的看着先生的脸了。

    他那张脸也非比寻常,虽身为西洋人鼻子高翘,可上面布着皮段,鼻肉也太过厚实。这鼻子确与我格外相像,但初见之后我却没觉着顺眼。他的胡子什么的真是令人颇感怜意的黑白乱生,在鼻子周边纷杂一片,倒有几分乡土风趣。曾几何时我在贝克街撞见先生的时候,犹觉得他是个忘带鞭子的马车夫。

    我从未见过先生穿白衬衫立白领子,他总是身着条纹图样的法兰绒衣装,蹬着厚重的拖鞋。腿像要伸进暖炉里似的抻直,而后时时拍打他短小双腿的膝部——那时我才头回注意到,在先生消极的手指上,嵌有一枚金色的戒指,

    他有时也不拍膝盖,改为摩挲着大腿与我讲课。可他要教我些什么我并不清楚,问了下他便带着我到他爱去的地方,而且决不让我先回去。这地方随时节的递嬗或天气的情况也会变化诸多,据情况甚至昨天和今天就会迁到两极去。论坏处确实是荒唐地儿,论好处也算是带我去了文学性的讲座。

    但现在回过头想一番,讲一次课就七法令,怎么可能有大量正规的讲义给我听呢?先生的做法是尤为合理的,认为这是不公待遇的我才显得愚昧。不过先生的思想也同他的胡髯所表现的一般,似乎也有些许乱杂的倾向,所以就算我索性加了价钱,或许也别让他带我去更高深的讲座会比较好。

    先生颇为自豪的是诗,他一读起诗来从脸到肩那块就跟升起焰霭般晃动不止——这可没开玩笑,是真在振动。虽然他并不读给我听,我也把这归结于独自读诗更为乐活,算来这是我的损失。记得有次我带着斯温伯恩的《罗莎蒙特》还是什么来着去了一趟先生的家,他要去看了看,朗读了三两行便立刻将其倒扣在腿上,叹息道:“没劲没劲,斯温伯恩也不行了,为了写这种诗而沉入老年了啊。” 也是听过先生的话,我才想要去拜读下斯温伯恩的杰作《阿诺兰达》。

    先生总把我当小孩看待,“你知道这个吗?那个你明白吗?”诸如此例,时常会被他问一些蠢事。不过他也会突然提出一些深刻的问题,把我当成同辈对待。曾经他在我跟前读着沃森的诗,问我道:“有人认为沃森和雪莱有相似之处,也有人认识二者完全不同,你怎么看?”

    这问我怎么想,对我而言,西洋的诗首先得诉诸于视觉,而后得若不经通听觉便是丝毫不得理解的。我也就大概回复了一番,回答的是像雪莱呢还是不像呢,现在已全然忘却了。但奇怪的是,先生听罢后再拍起膝盖来,向我说道:“我也是这么想的。” 这确让我不胜惶恐。

    有次先生打开窗户,探出头去俯望在遥遥下界穿行的繁碌人海,与我说道:“你看,有如此多的人穿行世间,可其内能懂诗的百里无一,真是些可怜人。到底英国人仅是无可悟诗的一国之人,就这点而言爱尔兰人便更为优秀,学识更为卓越——事实上能够品味诗的你我都不得不说自己是幸福的。” 

    我是很感谢先生能将我也纳入可赏诗的伙群之中的,但他对我却格外冷淡。我当时并不认为自己对这位老师已有所感情,只觉着他是个在器械性说教的老爷子罢了。

    可之后发生了这样一件事,我已极为厌烦自己所住的公寓,想问问看这位老师能否先收留我。便在某日练习结束后向他开了口,先生听罢后敲起膝盖,向我说道:“嗯——我先带你看看我的房子吧,过来。”

    我跟着他看过饭厅、女仆的房间、厨房,全都转过一圈。这房间原本也只是这四层楼筑的一角而已,自不可能有多宽敞,花了两三分钟便再无可观之处。先生遂回到原来的位置上,我已想着他会说穷家寒舍,并无可容我之地而拒绝我了。但他却突然说起了威尔特.惠特曼的事情。

    以前惠特曼曾在我加逗留过一段时间——他说的很快,我没怎么听明白,大概就是说惠特曼曾来过这地方——惠特曼这个人,我一开始读他的诗时总觉着很一般,但反复读过几遍便渐渐感有了乐趣,最后已可说是沉迷其中了,因而一听到他说到惠特曼,请他安置一下我这学生的事情就已不知抛向何方了。

    我只得被牵着鼻子走的一面附和一面听他讲述,记得好像是说那时雪莱和谁吵了个架。“吵架并不好,我喜欢的两个人去吵架那就更不好了。”先生如是回想,道以不满。不过他再怎么愤愤,吵架也是几十年前的事儿了,如何也于事无补。

    先生很是马虎,常将自己的书给乱放。而后一旦寻不着,便会十分焦急的,用极为夸张的声音,如家中起火了般将厨房的老婆子唤出来。听到呼唤声的老婆子也会带着一副夸张的神情现身客厅。

    “我我我——我的华兹华斯放哪去了?”

    老婆子瞪着若盘子一般惊讶的双目,先扫视了一圈书架,不管怎么惊异她倒也确实可靠能干,不大会儿便找到了华兹华斯,将书取下,塞到先生面前,略带责备说道:“这不是吗?拿去。”

    先生则像抢劫一样夺过书来,叠起两根手指头在脏旧的封皮上敲着,开始同我说教:“听好了,华兹华斯呢……” 老婆子听言双眼睁得愈发狰狞,先行退回了厨房。先生连着敲了两三分钟的华兹华斯,却终也未将这好容易找出的书翻开一页。

    先生偶尔也会寄信,可他写的字是看不得的。虽说内容不过三两行,也不是没有反复推敲的时间,但怎么也没能确定到底写了什么。此后若先生寄信来的话,我便断定信上是说今天有事,不能做练习,从而省下去读信的工夫。他也会让惊婆给他代笔,这时寄来的信就会好看很多,不得不说先生真是雇了个方便的代书人。先生曾对我哀叹道:“我这字没法看,难得救了。”说罢又抬起头来添上一句:“你就写得好多了。”

    我总止不住的担心先生以这样的字写原稿,会写成什么样来。他出版阿登版的莎士比亚,我也挺感慨他写的那字竟可被转为活版字模。先生倒是满不在乎的写序文、做笔记,将就着自己的字体。不仅如此,先生还一定要我看一看他给《哈姆雷特》写的序言,读了一番确实很精彩,他便向我托付道:“你回到日本后务必帮我宣传宣传这本书。”

    我回国后在大学做讲义时,这本阿登版莎士比亚的《哈姆雷特》予我颇多利惠,我想如那本哈姆雷特的笔记般周到完善的把握全文的书恐怕世间再无二本。但我在当时还未有这番敬意,毕竟先生对莎士比亚的研究早已我震惊不已了。

    从客厅转过一个直角便有一间六叠阔的狭小书房,实话相道,在先生于这四层楼的一角所筑起的窝巢下,这角落之中的角落里堆放有对他而言无比珍重的宝物——数约十本,每本长一尺五寸宽一尺左右的青色封皮手帐。先生不断的将写在小纸片上的句子添到这些手帐里,有如守财奴存起铜板一般,一生即乐于眼望其愈攒愈多。

    我到这站了没多久便立刻知晓了这青色封皮手帐就是莎士比亚字典的原稿。先生为了成就这份字典,似乎舍弃了威尔士某大学的文学宝座,每天都要空些时间跑去大英博物馆。连大学的一等席座都能不屑一顾的老师,对只出七法令的门生不管不顾想来也是合情合理。在先生脑中,只有这本字典终日终夜的满踞槃桓。

    我曾问过先生现已有了施米德的莎翁字典,还要再写一本一样的吗?先生听着却一副忍不住要轻蔑我的模样,将自己手头的施米德递给我说道:“你看看吧。”

    我接过来一瞧,就是施米德字典前后两卷的每一页都被翻到彻底发黑了,我不禁感叹两声惊讶的盯着施米德。先生见我这样则颇为得意:“你啊,要是我在编的字典不过是施米德的水平。哪还会费这么大劲。”说着话先生再叠起两根手指头,开始敲击这纯黑一片的施米德字典。

    “您是什么时候开始着手这项工作的呢?”我问先生道。

    先生听言起身走到对过的书架旁,不停的翻找起什么来,但毫无发现后又焦急的唤起老婆子:“珍!珍!我的道登放哪去了?”

    在老婆子过来的路上,他仍在询问道登的下落。老婆子再以一副惊异的神情出现,同上次一般埋怨了句“这不是吗?”将书给先生找出来后自己便退了回去。

    先生对老婆子的不敬完全没放心上,他饥渴的将书翻开。念叨着:“唔就是这儿了,道登在这有好好的列出我的名字,这写着:‘特别是研究莎士比亚的克勒伊古先生’,这本书是187……年出版的,因为我的研究要更早就开始了……”

    我要再听先生回忆就没完没了了,便开口问道:“那什么时候能够完成呢?”

    “我也不知道,至死之前都可提笔啊。”先生说着话将道登塞回了原本的位置。

    我之后有相当一段时间都未到访过先生的窝巢,在久别之前,先生拒绝了日本大学聘他做西洋教授的邀请。他说若我还年轻便去了。脸上总有几分自觉世间世事无常的悲感,我只在那时见过先生脸上有所悲情浮现。

    “您不是还年轻着吗?”我安慰着先生。

    “别骗我了,我已五六十了,或许转眼间就会发生什么。”先生消沉的异常。

    在我回到日本大概两年后,一本新到的文艺杂志上刊登了克勒伊古先生的死讯,介绍他是专攻莎士比亚的学者的记述不过多添了三两行而已。

    搁下杂志。思忖着,那本字典终是未完成,而成了一堆废纸吗?

    クレイグ先生

     クレイグ先生は燕つばめのように四階の上に巣をくっている。舗石しきいしの端に立って見上げたって、窓さえ見えない。下からだんだんと昇って行くと、股ももの所が少し痛くなる時分に、ようやく先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に真鍮しんちゅうの敲子ノッカーがぶら下がっているだけである。しばらく門前で休息して、この敲子の下端かたんをこつこつと戸板へぶつけると、内から開けてくれる。

     開けてくれるものは、いつでも女である。近眼ちかめのせいか眼鏡をかけて、絶えず驚いている。年は五十くらいだから、ずいぶん久しい間世の中を見て暮したはずだが、やっぱりまだ驚いている。戸を敲たたくのが気の毒なくらい大きな眼をしていらっしゃいと云う。

     這入はいると女はすぐ消えてしまう。そうして取附とっつきの客間――始めは客間とも思わなかった。別段装飾も何もない。窓が二つあって、書物がたくさん並んでいるだけである。クレイグ先生はたいていそこに陣取っている。自分の這入はいって来るのを見ると、やあと云って手を出す。握手をしろという相図だから、手を握る事は握るが、向むこうではかつて握り返した事がない。こっちもあまり握り心地が好い訳でもないから、いっそ廃よしたらよかろうと思うのに、やっぱりやあと云って毛だらけな皺しわだらけな、そうして例によって消極的な手を出す。習慣は不思議なものである。

     この手の所有者は自分の質問を受けてくれる先生である。始めて逢あった時報酬はと聞いたら、そうさな、とちょっと窓の外を見て、一回七志シルリングじゃどうだろう。多過ぎればもっと負けても好いと云われた。それで自分は一回七志の割で月末に全額を払う事にしていたが、時によると不意に先生から催促を受ける事があった。君、少し金が入いるから払って行ってくれんかなどと云われる。自分は洋袴ズボンの隠かくしから金貨を出して、むき出しにへえと云って渡すと、先生はやあすまんと受取りながら、例の消極的な手を拡ひろげて、ちょっと掌てのひらの上で眺めたまま、やがてこれを洋袴の隠しへ収められる。困る事には先生けっして釣を渡さない。余分を来月へ繰くり越こそうとすると、次の週にまた、ちょっと書物を買いたいからなどと催促される事がある。

     先生は愛蘭土アイヤランドの人で言葉がすこぶる分らない。少し焦せきこんで来ると、東京者が薩摩さつま人と喧嘩けんかをした時くらいにむずかしくなる。それで大変そそっかしい非常な焦きこみ屋なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔だけ見ていた。

     その顔がまたけっして尋常じゃない。西洋人だから鼻は高いけれども、段があって、肉が厚過ぎる。そこは自分に善よく似ているのだが、こんな鼻は一見したところがすっきりした好い感じは起らないものである。その代りそこいら中じゅうむしゃくしゃしていて、何となく野趣がある。髯ひげなどはまことに御気の毒なくらい黒白乱生こくびゃくらんせいしていた。いつかベーカーストリートで先生に出合った時には、鞭むちを忘れた御者カブマンかと思った。

     先生の白襯衣しろシャツや白襟しろえりを着けたのはいまだかつて見た事がない。いつでも縞しまのフラネルをきて、むくむくした上靴うわぐつを足に穿はいて、その足を煖炉ストーブの中へ突き込むくらいに出して、そうして時々短い膝を敲たたいて――その時始めて気がついたのだが、先生は消極的の手に金の指輪を嵌はめていた。――時には敲たたく代りに股ももを擦こすって、教えてくれる。もっとも何を教えてくれるのか分らない。聞いていると、先生の好きな所へ連れて行って、けっして帰してくれない。そうしてその好きな所が、時候の変り目や、天気都合でいろいろに変化する。時によると昨日きのうと今日きょうで両極へ引越しをする事さえある。わるく云えば、まあ出鱈目でたらめで、よく評すると文学上の座談をしてくれるのだが、今になって考えて見ると、一回七志ぐらいで纏まとまった規則正しい講義などのできる訳のものではないのだから、これは先生の方がもっともなので、それを不平に考えた自分は馬鹿なのである。もっとも先生の頭も、その髯ひげの代表するごとく、少しは乱雑に傾かたむいていたようでもあるから、むしろ報酬の値上をして、えらい講義をして貰わない方がよかったかも知れない。

     先生の得意なのは詩であった。詩を読むときには顔から肩の辺あたりが陽炎かげろうのように振動する。――嘘うそじゃない。全く振動した。その代り自分に読んでくれるのではなくって、自分が一人で読んで楽んでいる事に帰着してしまうからつまりはこっちの損になる。いつかスウィンバーンのロザモンドとか云うものを持って行ったら、先生ちょっと見せたまえと云って、二三行朗読したが、たちまち書物を膝ひざの上に伏せて、鼻眼鏡はなめがねをわざわざはずして、ああ駄目駄目スウィンバーンも、こんな詩を書くように老い込んだかなあと云って嘆息された。自分がスウィンバーンの傑作アタランタを読んでみようと思い出したのはこの時である。

     先生は自分を小供のように考えていた。君こう云う事を知ってるか、ああ云う事が分ってるかなどと愚ぐにもつかない事をたびたび質問された。かと思うと、突然えらい問題を提出して急に同輩扱どうはいあつかいに飛び移る事がある。いつか自分の前でワトソンの詩を読んで、これはシェレーに似た所があると云う人と、全く違っていると云う人とあるが、君はどう思うと聞かれた。どう思うたって、自分には西洋の詩が、まず眼に訴えて、しかる後のち耳を通過しなければまるで分らないのである。そこで好い加減な挨拶あいさつをした。シェレーに似ている方だったか、似ていない方だったか、今では忘れてしまった。がおかしい事に、先生はその時例の膝を叩たたいて僕もそう思うと云われたので、大いに恐縮した。

     ある時窓から首を出して、遥はるかの下界を忙いそがしそうに通る人を見下みおろしながら、君あんなに人間が通るが、あの内で詩の分るものは百人に一人もいない、可愛相かわいそうなものだ。いったい英吉利人イギリスじんは詩を解する事のできない国民でね。そこへ行くと愛蘭土人アイヤランドじんはえらいものだ。はるかに高尚だ。――実際詩を味あじわう事のできる君だの僕だのは幸福と云わなければならない。と云われた。自分を詩の分る方の仲間へ入れてくれたのははなはだありがたいが、その割合には取扱がすこぶる冷淡である。自分はこの先生においていまだ情合じょうあいというものを認めた事がない。全く器械的にしゃべってる御爺おじいさんとしか思われなかった。

     けれどもこんな事があった。自分のいる下宿がはなはだ厭いやになったから、この先生の所へでも置いて貰おうかしらと思って、ある日例の稽古けいこを済ましたあと、頼んで見ると、先生たちまち膝ひざを敲たたいて、なるほど、僕のうちの部屋を見せるから、来たまえと云って、食堂から、下女部屋から、勝手から、一応すっかり引っ張り回して見せてくれた。固もとより四階裏の一隅ひとすみだから広いはずはない。二三分かかると、見る所はなくなってしまった。先生はそこで、元の席へ帰って、君こういう家うちなんだから、どこへも置いて上げる訳には行かないよと断るかと思うと、たちまちワルト・ホイットマンの話を始めた。昔ホイットマンが来て自分の家へしばらく逗留とうりゅうしていた事がある――非常に早口だから、よく分らなかったが、どうもホイットマンの方が来たらしい――で、始めあの人の詩を読んだ時はまるで物にならないような心持がしたが、何遍も読み過すごしているうちにだんだん面白くなって、しまいには非常に愛読するようになった。だから……

     書生に置いて貰う件は、まるでどこかへ飛んで行ってしまった。自分はただ成行なりゆきに任せてへえへえと云って聞いていた。何でもその時はシェレーが誰とかと喧嘩けんかをしたとか云う事を話して、喧嘩はよくない、僕は両方共好きなんだから、僕の好きな二人が喧嘩をするのははなはだよくないと故障を申し立てておられた。いくら故障を申し立てても、もう何十年か前に喧嘩をしてしまったのだから仕方がない。

     先生はそそっかしいから、自分の本などをよく置き違える。そうしてそれが見当みあたらないと、大いに焦せきこんで、台所にいる婆さんを、ぼやでも起ったように、仰山ぎょうさんな声をして呼び立てる。すると例の婆さんが、これも仰山な顔をして客間へあらわれて来る。

    「お、おれの『ウォーズウォース』はどこへやった」

     婆さんは依然として驚いた眼を皿のようにして一応書棚しょだなを見廻しているが、いくら驚いてもはなはだたしかなもので、すぐに、「ウォーズウォース」を見つけ出す。そうして、「ヒヤ、サー」と云って、いささかたしなめるように先生の前に突きつける。先生はそれを引ったくるように受け取って、二本の指で汚きたない表紙をぴしゃぴしゃ敲たたきながら、君、ウォーズウォースが……とやり出す。婆さんは、ますます驚いた眼をして台所へ退さがって行く。先生は二分も三分も「ウォーズウォース」を敲いている。そうしてせっかく捜さがして貰った「ウォーズウォース」をついに開けずにしまう。

     先生は時々手紙を寄こす。その字がけっして読めない。もっとも二三行だから、何遍でも繰返くりかえして見る時間はあるが、どうしたって判定はできない。先生から手紙がくれば差支さしつかえがあって稽古けいこができないと云うことと断定して始めから読む手数てすうを省はぶくようにした。たまに驚いた婆さんが代筆をする事がある。その時ははなはだよく分る。先生は便利な書記を抱かかえたものである。先生は、自分に、どうも字が下手で困ると嘆息していられた。そうして君の方がよほど上手だと云われた。

     こう云う字で原稿を書いたら、どんなものができるか心配でならない。先生はアーデン・シェクスピヤの出版者である。よくあの字が活版に変形する資格があると思う。先生は、それでも平気に序文をかいたり、ノートをつけたりして済すましている。のみならず、この序文を見ろと云ってハムレットへつけた緒言しょげんを読まされた事がある。その次行って面白かったと云うと、君日本へ帰ったら是非この本を紹介してくれと依頼された。アーデン・シェクスピヤのハムレットは自分が帰朝後大学で講義をする時に非常な利益を受けた書物である。あのハムレットのノートほど周到にして要領を得たものはおそらくあるまいと思う。しかしその時はさほどにも感じなかった。しかし先生のシェクスピヤ研究にはその前から驚かされていた。

     客間を鍵かぎの手てに曲ると六畳ほどな小さな書斎がある。先生が高く巣をくっているのは、実を云うと、この四階の角で、その角のまた角に先生にとっては大切な宝物がある。――長さ一尺五寸幅一尺ほどな青表紙の手帳を約十冊ばかり併ならべて、先生はまがな隙すきがな、紙片かみぎれに書いた文句をこの青表紙の中へ書き込んでは、吝坊けちんぼうが穴の開あいた銭ぜにを蓄ためるように、ぽつりぽつりと殖ふやして行くのを一生の楽みにしている。この青表紙が沙翁字典さおうじてんの原稿であると云う事は、ここへ来出きだしてしばらく立つとすぐに知った。先生はこの字典を大成するために、ウェールスのさる大学の文学の椅子を抛なげうって、毎日ブリチッシ・ミュージアムへ通う暇をこしらえたのだそうである。大学の椅子さえ抛つくらいだから、七志シルリングの御弟子を疎末そまつにするのは無理もない。先生の頭のなかにはこの字典が終日終夜槃桓磅ばんかんほうはくしているのみである。

     先生、シュミッドの沙翁字彙さおうじいがある上にまだそんなものを作るんですかと聞いた事がある。すると先生はさも軽蔑けいべつを禁じ得ざるような様子でこれを見たまえと云いながら、自己所有のシュミッドを出して見せた。見ると、さすがのシュミッドが前後二巻一頁として完膚かんぷなきまで真黒になっている。自分はへえと云ったなり驚いてシュミッドを眺めていた。先生はすこぶる得意である。君、もしシュミッドと同程度のものを拵こしらえるくらいなら僕は何もこんなに骨を折りはしないさと云って、また二本の指を揃そろえて真黒なシュミッドをぴしゃぴしゃ敲たたき始めた。

    「全体いつ頃ごろから、こんな事を御始めになったんですか」

     先生は立って向うの書棚しょだなへ行って、しきりに何か捜さがし出したが、また例の通り焦じれったそうな声でジェーン、ジェーン、おれのダウデンはどうしたと、婆さんが出て来ないうちから、ダウデンの所在ありかを尋ねている。婆さんはまた驚いて出て来る。そうしてまた例のごとくヒヤ、サーと窘たしなめて帰って行くと、先生は婆さんの一拶いっさつにはまるで頓着とんじゃくなく、餓ひもじそうに本を開けて、うんここにある。ダウデンがちゃんと僕の名をここへ挙あげてくれている。特別に沙翁さおうを研究するクレイグ氏と書いてくれている。この本が千八百七十……年の出版で僕の研究はそれよりずっと前なんだから……自分は全く先生の辛抱に恐れ入った。ついでに、じゃいつ出来上るんですかと尋ねて見た。いつだか分るものか、死ぬまでやるだけの事さと先生はダウデンを元の所へ入れた。

     自分はその後ごしばらくして先生の所へ行かなくなった。行かなくなる少し前に、先生は日本の大学に西洋人の教授は要いらんかね。僕も若いと行くがなと云って、何となく無常を感じたような顔をしていられた。先生の顔にセンチメントの出たのはこの時だけである。自分はまだ若いじゃありませんかといって慰めたら、いやいやいつどんな事があるかも知れない。もう五十六だからと云って、妙に沈んでしまった。

     日本へ帰って二年ほどしたら、新着の文芸雑誌にクレイグ氏が死んだと云う記事が出た。沙翁さおうの専門学者であると云うことが、二三行書き加えてあっただけである。自分はその時雑誌を下へ置いて、あの字引はついに完成されずに、反故ほごになってしまったのかと考えた。

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