皆さん、こんばんは、zoeです。
听众朋友们大家晚上好,我是今天共读栏目的主播zoe。今天我们继续共读日本作家芥川龙之介先生的《鼻子》。看看今天内供为了找到同类,寻求安心感,都做了些什么。
鼻子芥川龍之介
第一に内供の考えたのは、この長い鼻を実際以上に短く見せる方法である。これは人のいない時に、鏡へ向って、いろいろな角度から顔を映しながら、熱心に工夫くふうを凝こらして見た。どうかすると、顔の位置を換えるだけでは、安心が出来なくなって、頬杖ほおづえをついたり頤あごの先へ指をあてがったりして、根気(こんき)よく鏡を覗いて見る事もあった。しかし自分でも満足するほど、鼻が短く見えた事は、これまでにただの一度もない。時によると、苦心すればするほど、かえって長く見えるような気さえした。内供は、こう云う時には、鏡を箱へしまいながら、今更のようにため息をついて、不承不承にまた元の経机きょうづくえへ、観音経かんのんぎょうをよみに帰るのである。
他最初想到的办法是让这鼻子比实际上显得短一些。他就找没人在场的时候,从不同的角度照镜子,专心致志地揣摩。他时而觉得光改变脸的位置心里还不够踏实,于是就一会儿手托腮帮子,一会儿用手指扶着下巴额,一个劲儿地照镜子。可是怎么摆弄鼻子也从不曾显得短到使他心满意足。有时候他越是挖空心思,反而越觉得鼻子显得长了。于是,内供就叹口气,把镜子收在匣子里,勉勉强强又对着经几诵他的《观音经》去了。
それからまた内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。池の尾の寺は、僧供講説そうぐこうせつなどのしばしば行われる寺である。寺の内には、僧坊(そうぼう)が隙なく建て続いて、湯屋では寺の僧が日毎に湯を沸(わ)かしている。従ってここへ出入(しゅつにゅう)する僧俗(そうぞく)の類たぐいも甚(はなは)だ多い。内供はこう云う人々の顔を根気よく物色(ぶっしょく)した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干すいかんも白の帷子かたびらも はいらない。まして柑子色こうじいろの帽子や、椎鈍しいにびの法衣ころもなぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。――しかし鍵鼻かぎばなはあっても、内供のような鼻は一つも見当らない。その見当らない事が度重(たびかさ)なるに従って、内供の心は次第にまた不快になった。内供が人と話しながら、思わずぶらりと下っている鼻の先をつまんで見て、年甲斐としがいもなく顔を赤(あか)らめたのは、全くこの不快に動かされての所為しょいである。
内供还不断地留心察看别人的鼻子。僧供经常在汕尾寺讲道。寺院里,禅房栉比鳞次,僧徒每天在浴室里烧澡水。这里出出进进的僧侣之辈,络绎不绝。内供不厌其烦地端详这些人的脸。因为哪怕一个也好,他总想找个鼻子跟自己一般长的人,聊以自慰。所以他既看不见深蓝色绸衣,也看不见白单衫。至于橙黄色帽子和暗褐色僧袍,正因为平素看惯了,更不会映入他的眼帘。内供不看人,单看鼻子:鹰勾鼻子是有的,像他这号儿鼻子,却连一只也找不到。总找又总也找不到,内供逐渐地就懊恼起来。他一边跟人讲话,一边情不自禁地捏捏那尊拉着的鼻尖,不顾自己的岁数绊红了脸,这都怪他那惆怅的情绪。
最後に、内供は、内典外典ないてんげてんの中に、自分と同じような鼻のある人物を見出して、せめても幾分(いくぶん)の心やりにしようとさえ思った事がある。けれども、目連もくれんや、舎利弗しゃりほつの鼻が長かったとは、どの経文(きょうもん)にも書いてない。勿論竜樹りゅうじゅや馬鳴めみょうも、人並の鼻を備えた菩薩ぼさつである。内供は、震旦しんたんの話の序ついでに蜀漢しょくかんの劉玄徳りゅうげんとくの耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。
最后,内供竟想在内典外典里寻出一个鼻子跟自己一模一样的人,好排遣一下心头的愁闷。可是什么经典上也没记载着目键连和舍利弗的鼻子是长的。龙树和马鸣这两尊菩萨,他们的鼻子当然也跟常人没什么两样。内供听人家讲到震旦①的事情,提及蜀汉的刘玄德耳朵是长的,他想,那要是鼻子的话,该多么能宽解自己的心啊。
今天的共读到此结束,感谢大家。
では、おやすみなさい。
本期监制: 日语之声
本期小编: 沫 言
本期主播: z o e
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